大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

名古屋高等裁判所 平成2年(う)114号 判決 1990年7月17日

主文

原判決を破棄する

被告人を懲役二年に処する。

原審における未決勾留日数中六〇日を右刑に算入する。

押収してある手工用切出ナイフ一本(<証拠>)を没収する。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人水野基作成の控訴趣意書に記載されているとおりであるから、これを引用するが、その要旨は、原判決の量刑が重過ぎて不当である、というのである。

控訴趣意の判断に先立ち、職権で原判決に事実の誤認がないか否かを検討する。

原審で取り調べられた各証拠によれば、本件は、平成元年一月二八日午前一時過ぎころ、肩書住居の「パチンコ○○」従業員寮内の被告人居室において、被告人が乙川夏子(以下「被害者」という)の殺害を決意し、同日午前二時三〇分ころ、手工用切出ナイフ一本(<証拠>、以下「本件ナイフ」という)を右手で逆手に持ち、居室内に敷かれた布団の上に仰向けになっていた被害者の右胸部を一回突き刺したが、被害者は加療約一週間を要する右前胸部穿刺傷の傷害を負うに止まった殺人未遂の事案であることは間違いないところ、原判決は、(罪となるべき事実)として「布団の上に仰向けになっていた被害者に対し上体をのしかかるようにしてその右胸部を力一杯一回突き刺したが、被害者に加療約一週間を要する右前胸部穿刺傷の傷害を負わせたに止まり、殺害の目的を遂げなかった」と判示しているに過ぎず、右殺人行為が未遂に終わったのがいかなる原因によったのか判文上明確ではないけれども、その(法令の適用)において 中止未遂による刑の必要的減軽を行っていないことからすれば、原判決が、本件犯行について、中止未遂ではなく、障害未遂を認定判示していることは明らかである。

ところが、原審で取り調べられた各証拠及び被告人の当審公判廷における供述によれば、以下の事実が認められ、この認定を左右するに足りる証拠は見当たらない。すなわち、

<1>  被告人は、前同日午前二時三〇分ころ、本件ナイフを右手に逆手に持って、布団の上に仰向けになっていた被害者に対し、上体をのしかかるようにしてその右胸部を一回突き刺したところ、被害者がうめき声をあげたので、我に返るとともに可愛そうになり、続けて刺すのを止めることとし、直ちにナイフの柄から手を離して立ち上がった。

<2>  続いて、被告人は、被害者に対して「傷口を押さえておけ」と言い残して居室外に出て一一九番電話をした。

<3>  被告人は、電話をして戻って見ると、被害者が本件ナイフを傷口からすでに外していたので、被害者と一緒に、被害者の傷口をその着衣の上から押さえていた。

<4>  同日午前二時三二分右一一九番電話を受理した消防本部の要請で、直ちに救急車が出動し、救急車は同日午前二時三六分被告人の住居に到着したが、被告人は、救急隊員に対して本件ナイフで被害者を刺したことを説明した。

<5>  救急隊員は、その場で被害者の応急手当てをしたのち、救急車で三重県度会郡<住所略>の山田赤十字病院に搬送したが、被告人は、右救急車に同乗して同病院に行き、医師の手当てを待って待合室で座っていたところを逮捕された。

<6>  本件ナイフは、全長約一三・一センチメートル、刃体の長さ約五・一センチメートル、刃渡り約三・五センチメートルの手工用切出ナイフであるところ、被害者の負った右前胸部穿刺傷は、切り口の長さ約二センチメートル、深さ約一・五センチメートルで肺には達していなかった。

以上の事実関係に基づき考察するに、本件はいわゆる実行未遂の事例ではあるが、被告人は、被害者の右胸部を一回突き刺したのち、自ら実行行為を中止したうえ、被害者の死亡という結果の発生を防止するため積極的で真摯な努力をしたものといわざるを得ないから、本件ナイフの性状と被告人がこれを被害者に突き刺したときの状況に比べて何故傷害の程度が前記のごとく軽度であったかは不明であるけれども、この傷害の程度からして、医師の治療が施されれば死亡の結果はまず発生しないと考えられることをも併せて判断すると、被告人の右殺人未遂の所為は刑法四三条但書の「自己ノ意思ニ因リ之ヲ止メタルトキ」に該当するというべきである。

そうだとすれば、原判決の前記認定には事実の誤認があり、右誤認は判決に影響を及ぼすことが明らかであるといわねばならない。

よって、控訴趣意に対する判断を省略して、刑訴法三九七条一項、三八二条により原判決を破棄し、同法四〇〇条但書により、当裁判所において、更に判決する。

(罪となるべき事実)

被告人は、三重県伊勢市内の「パチンコ○○」に勤務していたところ、平成元年一一月初めころ、同市内のスナック「B」において、同市内でスナック「C」を経営していた乙川夏子(昭和二一年五月二五日生)と知り合い、その日のうちに情交関係を持ち、間もなく同女との結婚を考えるようになったが、同女は、中学生の子供が二人もあり、もともと被告人とは結婚する気がなかったうえ、同女が仕事がら客と付き合うのに嫉妬した被告人が同女に暴力を振るったり、一方的に同女を結婚相手として勤務先の社長に紹介しようとしたことなどから被告人に嫌気がさし、同月二六日、被告人に電話して交際を断る旨告げるに至ったため、被告人は、これに立腹するとともに、このまま同女と別れてしまえば自己の面子が潰れることになると考え、同月二七日夜、肩書住居所在の「パチンコ○○」従業員寮内の被告人の居室から本件ナイフ<証拠>を持ち出したうえ、同女を前記「B」に呼び出し、同店内や同市内のスナック「D」店内などにおいて、同女に対し執拗に復縁を迫ったが、同女が頑としてこれに応じなかったため、更に、翌二八日午前一時過ぎころ、同女を前記被告人の居室に連れ込み、翻意を促して復縁を迫ったが、同女が依然として態度を変えず「何回も分かり切ったことをいわんといて」などといって拒絶し、あまつさえ同女の首筋に本件ナイフを押し当てて「これでも駄目なんか」と迫ったところ、「やるならやり」と応答したことに激昂し、同日午前二時三〇分ころ、激昂のあまり同女を殺害しようと決意し、所携の本件ナイフを右手に逆手に持ち、同室内に敷いた布団の上に仰向けになっていた同女に対して、上体をのしかかるようにして右前胸部を一回突き刺したが、同女がうめき声をあげたので、我に返るとともに可愛そうになり、続けて刺すのを止めることとし、直ちにナイフの柄から手を離して立ち上がり、同女に対して「傷口を押さえておけ」と言い残して居室外に出て、同日午前二時三二分ころ、一一九番電話をし、その後、同室内で同女とともにその傷口を着衣の上から押さえていたところ、救急車が同日午前二時三六分ころ被告人の住居に到着したので、被告人は、救急隊員に対して本件ナイフで被害者を刺したことを説明し、救急隊員がその場で被害者の応急手当てをしたのち、救急車で前記山田赤十字病院に搬送した際、右救急車に同乗して同病院に行き、医師の手当てを待つなどして、同女殺害の犯行を自己の意思で任意に中止したため、同女に対して加療約一週間を要する右前胸部穿刺傷の傷害を負わせたに止まり、同女殺害の目的を遂げなかったものである。

(証拠の標目)<省略>

(法令の適用)

被告人の判示所為は刑法二〇三条、一九九条に該当するところ、所定刑中有期懲役刑を選択し、右は中止未遂であるから同法四三条但書、六八条三号により法律上の減軽をし、その処断刑期の範囲内で被告人を懲役二年に処し、同法二一条を適用して、原審における未決勾留日数中六〇日を右刑に算入し、押収してある手工用切出ナイフ一本<証拠>は、判示犯行の用に供したもので、被告人以外の者に属しないから、同法一九条一項二号、二項本文を適用してこれを没収し、原審及び当審における訴訟費用は、刑訴法一八一条一項但書に則り、これらを被告人に負担させないこととする。

(量刑の理由)

本件は、被告人において、中学生の子供が二人もあって簡単には結婚できない被害者の立場を理解せず、一方的に結婚しようと熱を上げ、被害者から嫌われ絶縁を宣言されるや、判示の経緯で再三復縁を迫ったが、これを拒絶されたため憤激し、前後の見境もなく被害者を殺害して自殺すればよいと考えた末、確定的殺意のもとに所携の手工用切出ナイフで被害者の右前胸部を突き刺したものの、判示の傷害を負わせたに止まったという事案であるが、本件犯行の動機は極めて自己中心的かつ短絡的で同情に値せず、本件犯行の態様も、鋭利な切出ナイフで無防備、無警戒で布団の上に横たわる被害者の胸部を一撃して殺害しようとしたもので、(その一撃が判示の程度の傷害に止まったことは僥幸に過ぎず、)危険極まりないものであったこと、本件犯行により被害者の負った傷害の程度はもとより、被害者やその子供達の被った精神的打撃も無視できないことなどの諸事情を考慮すると、被告人の刑責は相当重いといわねばならない。

しかしながら、他面、被告人は被害者を一撃後はとにもかくにも、犯行の継続を思い止め、被害者殺害の結果発生を防止するため真摯な努力をしたこと、被告人は、本件犯行の直後から自己の所為を深く反省し、実父の助力を得て、被害者に謝罪し、いち早く治療費を支払うなど被害者の慰謝に努め、被害者も被告人に対してはそれ以上休業補償や慰謝料の請求はしていないこと、被告人は、これまで定職に就いて真面目に仕事に励んできており、現在被害者に未練は持っていないこと、被告人には前科・処罰歴が見当たらないことなどの事情も認められるので、以上の諸事情を総合勘案して量刑することとした。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 山本卓 裁判官 油田弘佑 裁判官 片山俊雄)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例